ジャーナリズム×人材育成

「良い記事が書ける能力とは」。記者の人材開発について研究しています。

なぜニュースは事件や事故を報じるのか!?

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ニュースで、毎日のように取り上げられている事件・事故。人々が営みを続けている以上、大きなものから小さなものまで、日々、事件・事故は起こっています。そして、その中でごく一部だけがニュースとして報道されています。

報道機関が、ある事象をニュースとして取り上げるべきか否かを判断すること(アカデミック用語でいう「ゲートキーピング」)については、また別の機会に触れるとして、今回はそもそも、なぜ、事件や事故をニュースで取り上げるのかについて、考えてみたいと思います。

 

■ 報道機関の事件・事故報道の取り組み

私が新人記者として、ある地方支局に着任したとき、支局の上司や先輩が、歓迎会を開いてくれました。取材を終えた夜、支局の中庭でバーベキューをしてもらいました。和やかな雰囲気のなか、「さぁ、肉が焼きあがった」と思ったら、突然、警察からプレスリリースが流れてきました。

 「殺人未遂事件の発生について」

 その瞬間、すぐさま現場に急行する記者、発生現場の近隣に電話をかけて状況をつかむ記者、原稿を作り始めるデスク……。「今年の新人は事件持ちか?」などと冗談を言われながら、急にバタバタした思い出があります。締め切りが終わった頃には、肉どころか炭火すらも消えていました。報道機関は、それくらい事件・事故には敏感になって、仕事に取り組んでいます。

事件・事故に関しては、警察からプレスリリースが24時間体制で流れてきます。プレスリリースを流す基準は、各都道府県警のスタンスによってまちまちで、万引きのような軽犯罪から、殺人などの凶悪犯罪まですべてを発表する県警もあれば、ある程度選別して流してくる県警もあります。人の死に関わる大きな事案の場合には、発生段階から発表されることもありますが、基本的には被疑者(犯人)を逮捕した段階で発表されます。

警察担当の新人記者は、ルーティーン業務として、そのプレスリリースをもとに、報道担当の警察官に取材をします。直接聞ける時は、直接担当者に会い、無理な場合は電話取材をします。事案が大きければ現場に直行です。発表は多い日では10件以上になり、この取材を千本ノックのように日々繰り返されることで、新人記者は情報を聞き出すコツのようなものをつかんでいきます。

とはいっても、やみくもに取材するだけではいけません。事件・事故には必ず被害に遭っている人がいます。取材するには、相当の配慮を要しますし、報道の意義を胸に秘めていなければいけません。 以前、遺族取材について、このブログ (http://kaz-journal.hatenablog.com/entry/2015/04/28/083918)で書いたように、報道機関は、事件に巻き込まれた被害者らが「声を上げたい」、「世の中に訴えたい」と思ったとき、発信媒体として力添えできます。

また、社会をよりよい方向へ変えるための教訓として報じたり、風化させないために節目に再発防止を訴えたりするといったことが、事件・事故報道の意義として挙げられます。

もう少し視野を広げると、権力の監視という面もあります。人の身柄を拘束できるという絶大な権力を持つ警察組織に対して、適切に手続きがとられているか、常時プレッシャーを与えながら見守る役割もあります。

 

■江戸時代から事件は報道されていた

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(引用:東京大学大学院情報学環図書室webサイト・瓦版「江戸浅草 御蔵前女仇討」 )

では、いつから事件や事故の報道は行われているのでしょうか。先日、江戸東京博物館墨田区)を訪れました。当時の街並が、そのまま再現されていたり、ジオラマで表現されていたりと、一日中楽しめる仕掛けでいっぱいでしたが、私が最も興味を持ったのが、新聞の原型である「瓦版」の展示でした。

瓦版には、大地震や大火事のほか、「敵討ち」を報じたものがありました。書いている内容をすべて読み解けたわけではありませんでしたが、「なるほどなぁ、いつの時代も事件報道をやっているのだなぁ」と、感心してしまいました。

こうした歴史的観点から、事件・事故報道を捉えてみると、先程述べたジャーナリズムの意義などで語られる大義名分とは、少し違った側面があるのではないかと考えてしまいます。 

 

 ■事件事故を知るのは人間の本能

アメリカのメディア研究で、ニュースについて面白い切り口から言及されている論文があります。シラキュース大学のShoemarker(1996)教授は「人間は、本質的に恐怖や異常なものに関心を持っている。なぜなら、争い、論争、センセーショナルなこと、にぎわすこと、目立つこと、珍しいことなど、異常事態に緊急的に直面することがあるからだ」と述べています。

そして、進化論の提唱者であるDarwin(1936)の「進化」や「適応」を引き合いに出し、恐怖や異常なものへの関心は「環境の監視」であると主張します。我々の祖先は脅威に対して注意を払い、生存し、子を産み、遺伝子を次世代に継承してきました。何世代も超えて、異常との遭遇は脳内に組み込まれていて、メディアの機能によって、その意識が現出するようになったとしています。

これらの論を正とすると、事件・事故報道をする意味は、理性的な意義付けだけでなく、人間の根源的な性質に関わっていることが考えられます。おそらく、マスメディアが存在しなかった時代は、周囲で起こる不測の事態を警戒し、そして起こってしまったことから学び、生存の可能性をできるだけ高めていたのではないでしょうか。

ローカル、または個人的なレベルで「恐怖や異常なものへの遭遇経験」から得た学びをマスメディアに載せることによって、人間の叡智として広い意味での「環境の監視」を行っているのが、今の時代なのではないかなと思います。

ワンセンテンスでいうと、事件・事故を知ろうとするのは、人間の自己保存本能の一つなのではないか。従来、報道機関は、その人間の欲求に応えてきたということではないか、とも考えられます。

事件・事故報道をそう捉えると、一つのニュースを見たときに、決して対岸の火事と思うのでもなく、一過性の消費材として扱うのでもなく、自らの生きる糧とせねばなりません。

ニュースの送り手も受け手も、ときには、「そもそも論」でこうした思考を巡らせてこそ、よりよいコンテンツが増えるのではないかなと思います。

 

それでは、お元気で。

 

※参考文献

Shoemaker, P. J., & Stephen D. Reese (2013) Mediating the Message in the 21st Century A Media Sociology Perspective. New York, NY: Routledge.

 

 【ジャーナリズム人材育成論】

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