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フェイクニュース現象に見る「ニュース本来の役割」とは!?

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■フェイクニュース現象 

最近、事実に基づかない内容がニュースとして発信される「フェイクニュース」の問題が話題になっています。米大統領選でのデマの発信によって発砲事件を引き起こした「ピザゲート」事件や、英国のEU離脱の際の誤った拠出金額を公約に掲げたことなどが、社会に大きな影響を及ぼしました。また、日本でも熊本地震の際に「動物園からライオンが逃げた」との虚偽の発信が問題になりました。これらの問題に関連して、まとめサイトの信憑性のない記事や無断転載への指摘も取り沙汰されました。

 

このような情報の流布には、単なる冷やかしのような人間もいるかと思いますが、生業として行っている発信者、そして媒体運営者は、マーケティングマインドに特化した価値観が根底にあるように思います。産業として捉えたとき、低コスト大量生産による「販売志向」の発想でニュースを作り、個人または法人の利益追求を行っているような気がします。嘘でも何でも、ウケるものを低コストで大量に発信して、集客したい。そんな意識が垣間見えます。

 

しかし、なぜ、このような行いが批判されるのか。そもそもニュースとは何なのでしょうか。

 

 

■ニュースの役割

ニュースには読み物としての娯楽的要素もあると思いますが、それ以外にも2つの大切な役割があります。

 

一つは、環境監視に応える役割です。

 

人間には本来、身の安全を守るために情報を得る意識が備わっています。脅威や珍しいものに関心を持ち、環境の変化に対応をしようとするわけです。弥生時代には、村に物見やぐらを立て、敵襲がないか、いち早く情報をキャッチできるよう、見張っていたという説があります。「瓦版」として紙の情報共有が発展した江戸時代には火災、仇討ちなどがよく取り上げられています。

 

今でも、事件、事故、災害は人々の大きな関心ごとですね。報道機関には、それをいち早く、正確に伝達する仕組みが出来上がっています。

 

もう一つは、権力監視に応える役割です。

 

社会契約説を前提にすると、政府は主権である国民が信託に基づいて成立しているとされます。政府が国民の生命・自由・財産を侵害する場合には、国民は抵抗する権利があります。国民の権利を脅かしていないか、常に監視しておく必要があります。われわれが信頼して税金を納めている政府が、われわれの幸せのために政策をしてくれているのかを、情報を開示させ、チェックしなければいけません。

 

しかし、国民全員が常に監視しておくのは、難しい。ですから、報道機関や弁護士、オンブズマンなどが職業として、チェック機能を果たそうとしています。

 

この2つの役割を総じて言えば、「公共の福祉・安全を守る」役割と言い換えることができるでしょう。

 

 

■ニュースの社会的責任が問われる

レガシーメディアといわれる新聞をはじめとした報道機関は、戦後、ニュース制作において、マーケティングの意識とは別に、こうした公益性の高い役割を担うべく、不断の努力を続けてきました。

 

時には、報道機関が、報道の自由を守るべく国家と、時には、労働組合が、編集の自由を守るべく経営者と戦ってきました。

 

しかし、今でも十分な環境を得られていません。むしろ記者もそういった役割意識が薄れつつあり、後退している感もあります。

 

このような状況の中で、技術の進展に伴ってインターネットを中心とする新興メディアが現れてきました。中には、「公共の福祉・安全」の意識があまり見受けられないメディアもあります。ここには、玉石混淆とした情報の選別を行う「門番」としての役割を担う編集者の力量、情報を受ける人々の意識など、さまざまな問題がはらんでいると思います。役割意識の乏しいメディアが勢いづいてくる状況には、危惧を抱きます。

 

近年、インターネット上のコンテンツを見ていると、思わずクリックしたくなるようなキャッチーな見出しや画像の編集は目を見張るものがあります。しかし、これからは、そういったテクニックだけではなく、そもそも「ニュースを作る」ということはどういうことなのかが改めて問われるようになってくるように思います。

 

多様なメディアに触れられる時代になったからこそ、改めて「情報とは何か」「ニュースの存在意義」「ニュース制作のあり方」をそもそも論で語り合うべきなのかもしれません。

 

次回は、情報の受け手の目線から、ニュースとどのように向き合うべきかを考えてみます。

 

それでは、お元気で。