TSUJI-LAB.net

人材育成の観点から「経営」「教育」「メディア」について考えます。

組織の専門集団から離れて気付くこと

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◆取材は1対1がやりやすい◆

本職は編集の仕事なのですが、今でも時々、ライターとして取材をしています。新聞社時代と違って面白いなと感じることは、取材をしたことがない人に同席してもらっていることです。

 

特別な場合を除いて、取材が一番しやすい環境は1対1です。自分の知りたいことをスムーズに聞き出すことができますし、相手も周囲を気にすることなく、気兼ねなく話してくれるからです。複数の取材者がいると、それぞれが思い思いに話を聞くことになるため、論点がぶれてしまう恐れがあります。

 

記者会見では、そういうこともあってか、多くの記者は会見が終わってから、取材対象者をつかまえて、補足取材をするのが通例になっています。

 

 

◆取材に同席してもらう3つの理由◆

私は取材したことのない人に同席してもらって、あえて複数人で聞くようにしています。

 

そこには3つの理由があります。

 

ラポール(相互の信頼関係)を築く時間を短縮化する

よりよい質の記事を書くために、最大限のエネルギーを使いたいので、同席してもらうことに、職業体験的な側面を持たせる意図はありません。ですから、同席してもらう人は、取材対象者とある程度関係のある人です。顔見知りの人を連れて行くことで、相手の警戒心をとくための時間を短縮化することができます。その分、本題の部分に割く時間が増えます。

 

②気付かない視点から聞いてもらうことで、通り一遍の原稿にならないようにする

取材慣れしてくると、聞き方がパターン化してきて、一定の原稿は書けたとしても、思わぬところで大事なポイントを落としてしまう恐れがあります。複数の取材者になると論点がぶれやすい反面、「なるほど、そういう点も聞いておくべきだな」という気付きがあります。

 

③同席者の対話によって、スキルを言語化できる

自分にとっては、これが一番大きな要素です。取材未経験者が持つ関心ごとは、「人から話を聞く」という仕事とは何ぞやということです。人から話を聞くなんて、日常活動の中で行われるいたって普通の行為。「プロって何だ」と思っているわけです。

 

 

◆同席者との対話で学ぶこと◆

ここでは③に焦点を当てます。

 

例えば、同席者と取材の前後でこういう会話が繰り広げられます。

 

「取材では、どういう点に気をつけて聞いているのですか」(同席者)

 

「基本的に場面を作り出すことです。ここだと思った部分に関しては、気温とか、においとか、天気とか極めて細かいレベルまで聞くようにしています」(自分)

 

「へぇ、どうやって場面を選んでいるんですか」(同席者)

 

「ますは、一番印象に残っているつらかったこと、面白かったことを聞きます。記憶に強く残っている場面は、その人の人生の波になる部分が多いからです。あとは、『今』を聞きますかね」(自分)

 

「へぇ、『今』って……」

 

という具合です。

  

基本「へぇ」と返ってくるのですが、実は、僕も自分で言いながら「へぇ、自分ってこんなこと考えているんだ」と思っています。説明のなかには、これまで指導してくださった上司や先輩の請け売りもあるのですが、普段改めて確認することないスキルを言語化する行為は自分にとってはかなり新鮮です。

 

さらに、言語化することによって、内省が促されます。 

 

「意識しているポイントを今、伝えたけど、もっと工夫できるポイントなかったかな。このやり方、合っているんかな」などといったことを考え出します。

 

実践に基づく持論は、「こうだ」とかっちり決まっていないために、常に試行錯誤を続けるものだと思っています。したがって、ぐらぐらとしていて、不安定な部分が多い反面、果てしなく伸びしろが広がっていく可能性を秘めているものとも考えられます。

 

 

◆専門集団から離れて「なぜ」を問い直す◆

記者という専門集団のなかにいると、「原稿には『声』が必要だ」とか、「あんこ(話の核となる部分)がない」とか、「本記とサイド書き分けで」とか、「この情報には少なくとも2本の筋が取れないと載せられないな」とか、当たり前のように会話が繰り広げられますが、改めてそれは「なぜ」と問い直す機会はほとんどありません。

 

しかし、いったん専門集団を離れると、この「なぜ」がいっぱい出てくるのです。実はここにスキル改善の余地が眠っているかもしれない。すっと答えられないものは、やはりロジカルではないはず。専門集団であればあるほど、この「なぜ」と問い直す場を定期的に持った方がいいのではないかなと思います。

 

私の研究室の同級生(斉藤さん)は、職業上のスキルを生かしてボランティア活動をする「プロボノ」が、どのような能力強化につながるのかという研究をされています(http://blog.livedoor.jp/mitsuhiro_saito_lab/)。

 

僕は記者という専門集団から離れて、取材をすることで新たな学びがありました。どんな職業でも、離れてみて気付くことがあるように思います。これから、新たな知見が生まれることが楽しみです。

 

お元気で。

 

遺族の前で「泣く」か「泣かない」か

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◆最も難しい取材の一つ◆

取材は、森羅万象さまざまなものが対象になりますが、その中でも最も難しい取材の一つが、遺族の取材です。事件、事故、災害などで、身内を亡くされた方に話を聞かせてもらう。極めてナイーブかつセンシティブな取材です。

 

仮に身内を亡くされた親しい人がいたとしても、いや、親しい間柄であればあるほど、根掘り葉掘り話を聞くことは控えるかもしれません。

 

私が新聞社に入る前、大学3年生の頃のことです。就職活動の一環で、新聞記者の座談会に参加したことがありました。座談会には、大阪教育大附属池田小の事件などを担当されていた記者の方々が来ておられました。これまで連日報道される遺族の記事を読み、事件の凄惨さとともに、親の子どもに対する深い愛情が伝わってきて、涙を流しそうになったことが何度もありました。「遺族に寄り添うとは、どういうことなんだろう」。記事越しには読み取れなかった記者の一挙手一投足を知りたい。そんな思いを持って、座談会に臨みました。

 

「遺族の前で涙を流すことはないですね」、「遺族の気持ちは完璧に理解することはできません」。座談会で、冷静沈着に、そして淡々と話される記者を見て、大きな衝撃を受けました。もっと、温かなまなざしを持って、優しい表情で語ってくださるのだろうと、勝手なイメージを持っていたからです。

 

◆遺族取材の葛藤◆

その後、私は実際に記者になり、遺族取材をすることになりました。

 

記者も人間ですから、遺族に声をかけるのは強烈にためらいます。近くを行ったり来たりしながら、おそるおそる声をかけ、取材のお願いをします。

 

そして、中には応じてくださる人がいます。とつとつと話してくださる遺族の方々の言葉をノートに記します。質問をし、答えてもらう。また、質問をし、答えてもらう――。

 

その一連の流れを繰り返していると、「取材」という行為をしている自分と、それを俯瞰しているメタな自分が現れます。

 

 取材をしている自分は、言葉を慎重に選んで質問し、そしてできるだけ相手の思いを汲み取ろうとする。気持ちに近づこうとする。時には、本当に悲しかったり、辛かったりして、手が震えることすらあります。

 

一方、メタな自分は、極めて冷徹です。「この話は、記事なるのか」「少なくともこのへんの話はもっと深堀りするべきじゃないか」「写真は撮らせてもらえるのか」などと、原稿ベースで物を考えています。

 

 

そして、取材中、この取材行為者の自分とメタの自分がバトルを繰り広げるのです。他の取材でも、“二人の自分”は現れますが、とりわけ遺族取材のときはこの二人の対話は盛んになります。

 

「赤の他人のおまえが、人の心に土足で踏み入るのか。人の尊厳をなんだと思っている」(取材行為者)

 

「いやいや、おまえは『記者』として話を聞かせてもらっているんだろ。記事にならないレベルで、中途半端な聞き方をすることが最も失礼な行為だ」(メタ)

 

しかし、いつも唯一絶対の答えは見つかりません。

 

◆なぜ報じるか◆

「こんなときに赤の他人が……」「どういう義理があって……」というマスコミ批判があることは確かです。配慮の足りない行為は、決して許されるものではありません。

 

一方で、遺族の中には、何のしがらみもない第三者の人間だから話したいと思われる方もおられますし、また時の移り変わりとともに話したい、伝えたい、声を上げたいと思われる方もいます。これもまた事実です。

 

 

先日、災害で家族を亡くされた方に話を聞かせていただく機会がありました。

 

「何年経っても、腫れ物に触るように接してこられる。いろいろなことで遠慮されているのがわかる。別に隠したいことは何もないのに」とおっしゃっていました。

 

声を聞くこと、声を上げたい人の助けになること、そして、ともすれば、声の輪を広げて日本社会の制度が変わることに寄与することは、報道に従事する者の一つの役割なのかもしれません。

 

 

◆多くの経験を経て◆

私は遺族取材を経験し、座談会での記者の方々の態度が理解できるようになりました。

 

なぜ、あの時、記者の方々が、冷静沈着で、淡々と話されていたのか。

 

それは、遺族に対する謙虚な姿勢なのだと思います。

 

「私は遺族の気持ちがわかっている」、「私は寄り添っている」。そんな言葉は簡単には使えません。どこまでいっても、当事者にしか理解できないところがある。記者ができることは、遺族が紡ぎだす言葉を冷静に受け止め、世の中に発信することだけなのだと。

 

私は取材で涙を流すことは、なるべく避けるようにしています。感情的になって、判断を誤ってしまうことがあるかもしれないからです。

 

しかし、中には共感を求めている人がいるかもしれません。時には、ともに泣いたり、笑ったり、感情を共有し合うことも必要かもしれません。

 

これは一般化できるものではなく、人、時、場合、価値観によって変わるもので、非常に繊細なレベルで見極めていくことが重要だと考えます。

 

 

 

これからは、立場を変え、研究者として人から話を聞く機会が増えます。遺族取材はないにしても、場合によっては、同じような葛藤を生むことがあるのかなと想像します。科学的検証をすべく、「N」としてカウントできるようにインタビューしきるのか、しないのか。

 

ここにもまた、唯一絶対の答えはないような気がしています。

 

今回は、少し重いテーマについて考えてみました。歯切れの悪い記事なってしまいましたが、人から話を聞き、何かを生み出すことをする以上、避けてはいけない思考のように思います。

 

お元気で。

転職して「スキルを失う怖さ」を打ち消してくれた瞬間

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◆期待より不安が大きかった転職◆

2013年に転職してからは、公私ともにほとんどの環境が変わりました。暮らす場所も、人間関係も、職場もほぼ全部です。まさにアイデンティティの一つにもなっていた記者生活を離れたことは、大きな大きな転機となりました。

 

新しい環境に身を置いたとき、「新しい能力を身につける期待」はあるのですが、それよりも「培ってきたものを失う怖さ」が予想以上に大きいことに気が付きました。時に、人と対話したり、文章を書いたりする力が落ちているのではと、不安になることがあります。

 

そういうなか、39歳まで現役を続けた「鉄人Jリーガー」に取材させてもらう機会がありました。心に決めていたのは「なぜ39歳まで現役でいられたのか」をとことん聞き出そうということでした。

 

◆Jリーガーに学ぶ「キャリアサバイバル」◆

その選手は、長く現役でい続けるには「チームに合わせるプレーをすること」と語ってくれました。ころころと監督が変わるプロの世界で渡り歩くには、チームのなかで自分を生かす術を見出すことが重要だといいます。外国人監督が就任すると、その監督の言語を習得することすらいとわないといった徹底ぶりだったそうです。

 

僕はおこがましくも、自分の人生を重ね合わせるように、「今まで培ってきたプレースタイルを捨てることに怖さはないのですか」と聞きました。すると、「いや、捨てるということではないです。どちらかというと、『積み重ねる』というイメージです。今までのスタイルがあって、さらに引き出しを増やしていくということですかね」と答えてくれました。

 

この「積み重ねる」という言葉が、転職をして間もない僕にとって、大きな活力を与えてくれました。 

 

「自分のスタイルに固執することは、かえって自分の新たな可能性を狭めていることにつながっている」。そういう哲学を持つその選手は、今、指導者となり、教え子にはあえて不本意なこともさせ、「殻を破ること」を経験してもらうようにしているそうです。

 

まさに、これは「キャリア・サバイバル」の考え方だと思いました。職業人生のなかでうまく生き抜いていく。変化を前向きに捉えることの重要性を教えてもらいました。

 

◆前向きになって気付くこと◆

そうやって変化を受け入れながら仕事をしていると、新しい気付きが生まれました。例えば、僕は「飛び込み仕事に強い」ことを転職して初めて知りました。記者時代、日々、いつ発生するかわからない事件に対応していると、振られた事件をすぐに処理するという習慣が身についていました。

 

だから、雑務などを振られても、即座にこなす癖がついており、上司からは「仕事速いな」と一定の評価を得ることができました。やっている仕事内容は全然違うけれども、「結構、前の仕事のスキルが使えるな」と、引き出しが増える手ごたえを感じた瞬間がありました。

 

 

過去の経験にとらわれないよう、いったん学習したことを、意識的に忘れて、学び直しをすることを「アンラーニング」というそうです。日本語では「学習棄却」と訳されるそうですが、「捨てる」というニュアンスが強くて、個人的にはややネガティブな印象を持ってしまいます。

 

もし、鉄人Jリーガーのような哲学を適用するならば、「アップデートラーニング」とか「パイルアップラーニング」という呼称で、「学習更新」「積み重ね学習」みたいな感じの日本語にすると、もっとすっと受け入れられるのになぁと思ったり。

 

言葉にすら抵抗を持ってしまっている時点で、僕はもしかして「アンラーニング」できていない?のかもしれませんけどね。

 

過去を否定せずとも、変わることをもっと前向きに捉えたいと思います。

 

 

お元気で。

世の中には2つのタイプの「天才」がいる!?

取材で人の話を聞いたり、ドキュメンタリー番組を見たりしていると、最近、思うことがあります。それは、いわゆるその道の「天才」と呼ばれる人には、2つのタイプがいるのではないかということです。

 

暗黙知型「天才」◆

1:感覚が優れた暗黙知

「ここで、シュッと、そして、ここで、パッとやるんですよ」。元巨人軍の長嶋茂雄さんの指導などを思い浮かべると、わかりやすいですが、言語として精緻な表現を使わない人がいます。メキシコ五輪の時の日本代表で、史上最高のストライカーと呼ばれる釜本邦茂さんが、選手を指導される様子を取材した時も同じような感覚を覚えました。

 

この前も、世界的に有名な指揮者・小澤征爾さんが、テレビでインタビューを受けていて、一言一句は覚えていませんが、小澤さんが「楽譜からベートーベンの思いを汲み取る」というようなことをおっしゃったとき、キャスターが「私からすると、楽譜は『ド』は『ド』という音符の並びでしかないですが、どのように汲み取るのですか」などという質問を投げかけました。すると、少し黙った後、「そんなこと聞かれたことねぇなぁ」などと言って、別の話を切り出されていました。その瞬間、「この人、天才だ」と思わせられました。

 

言葉にできないけれども(もしかすると、あえてしていない部分もあるかもしれませんが)、卓越な技能を持ち合わせている。こういう人たちの感覚って、どうなっているんだろうとすごく興味を持ちます。

 

暗黙知」(Tacit Knowing)という概念があります。主観的で言語化できない知識のことで、この概念を提唱した哲学者のマイケル・ポラニーによると、「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」(マイケル・ポラニー著、伊藤敬三訳『暗黙値の次元』2002年紀伊國屋書店P15)そうです。人の顔を何千と見分けられるが、どのようにして認知して、区別するかということを普通は語ることができないという事実を一例として挙げ、暗黙知について説明しています。

 

技能に関しても、「我々は、筋肉の個々の要素的な諸活動から、それらの諸活動が共通に奉仕している目標の実現へと、注目するのである。したがって、ふつう我々は、これらの要素的な諸活動を明確に語ることはできない」(同P24)としています。

 

つまり、優れた感覚や技能について、細部にわたっては、すべて言語として語れるものではないということです。したがって、このタイプの「天才」の卓越した技能は、暗黙知によるところが大きいのではと思います。

 

◆論理型「天才」◆

2:「全てのものに理由がある」とする論理型

一方で、「全てのものには理由がある」と、その道を理論化して極めているタイプの人がいます。

 

例えば、日本一の天ぷら職人と言われている早乙女哲哉さんは、一つの天ぷらを揚げるのに、秒刻みで調理の工程を管理しているそうです。極めて論理的に味の追究をしている人のようです。また、落語家の桂枝雀さんも、「笑い」を類型化し、論理的に検証しようとした人として有名です。

 

人が能力を高めていく過程で、経験を積み重ね、ふとした瞬間「あぁ、これってこういうことだな」みたいなコツをつかむ瞬間が、多くの人にはあると思います。論理型の天才はこの作業を、かなり意識的に行っているのかなぁなんて思います。

 

組織行動学者のデーヴィット・コルブは、「経験学習サイクル」(1984)を提唱しました。人は、「行動」—「経験」—「省察」—「概念化」というサイクルを回すことで、どんどん学びが深まっていくというものです。経験を経験としてとどめるのではなく、これはどういうことだろうと、うまくいったことと、うまくいかなかったことを振り返り、「こういうことだろう」と概念化することが重要だそうです。

 

このタイプの天才は、経験学習サイクルをがんがん回していて、概念化するのがうまい人なのかなと思います。何十年と経験を積み重ね、たくさん概念化できているから、絶妙な味や極めきった技を、論理的に説明できるのではと思います。

 

◆疑問点◆

ただ、じゃあ、言語化できていない人は、経験学習サイクルを回していないのかという疑問も残りますし、反対に、概念化できている人は本当に言語で説明できているのかという疑問もあります。そもそも、この2つのタイプの天才って、熟達のプロセスは異なるのかという問題もあります。もしかすると、全く違う考え方をあてはめないといけないのかもしれません。

 

一体、この2つのタイプの天才は、何が違って、話せたり、話せなかったりするのでしょうか。単に口下手か否かという問題ではない気がします。頭の中をのぞいてみたい>_<

 

取材やテレビで、その道を極めた人たちの話を聞く中で、何となくそんなことを考えていました。勉強不足なだけで、すでにそういった知見は生まれているかもしれません。さらに知識習得に励みたいと思います。

 

お元気で。

 

 

新聞社が求めている人材は、“記者”ではない!?

◆新聞社の採用ページから見た人物像◆

先日、大学院の同級生から「記者ってどんな仕事?」と聞かれました。一言で返すのは難しいのですが、そのときは「多分、思っているより泥臭い仕事だと思うよ」という言葉が口をついて出てきました。

 

記者って、「記す者」と書くくらいだから、文章を書く仕事のイメージが強いかもしれません。しかし、実態はどうなのでしょうか。

 

各社の採用ページで、求めている人材に関わる言葉を抜粋してみました。

 

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このように見ると、「好奇心」や「行動力」、「コミュニケーション」という言葉が目に付きますね。つまり、新聞社は、文章を書く資質のある人を求めているというよりも、取材力のある人を求めているということが分かります。

 

◆好奇心とは◆

ちょっと社交的で活発な人なら、誰にでも当てはまりそうな資質ですが、仕事で求められるレベルとなると、意外にこれが難しいのです。

 

昔、こんなことがありました。

 

県警記者クラブで雑務仕事をしていたら、広報の人がやってきて、「今度、こんなことするから取材来てよ」と、一枚のペラを渡されました。そこには、暴力団対策課が、夜にスナックやバーを回って、しめ縄を配るというものでした。暴力団は年末になると、縄張りとする地域の飲み屋に門松やしめ縄を高額に販売するという慣習があり、それを事前に食い止める策として、配って回るというのです。

 

「うーん、夜遅くの取材だし、絵にもならなさそうだし、そもそもそれ意味あるのかな……」

 

なんて思いながら、ふと横にいた他社の後輩記者を見ると、目をキラキラと輝かせて「辻さん、これおもしろくないっすかー?めちゃくちゃおもしろいじゃないですかー?県警がしめ縄配るんですよー?」と。

 

Σ(゚д゚;) 

 

「すごい。好奇心が半端ない」

 

結局、僕も取材に行き、記事を書きましたが、彼は必死に全国面に載るようにデスクと交渉していました。

 

このように、好奇心一つとっても、なかなか奥が深そうです。

 

◆昔、「記者」は取材をしていなかった◆

そもそも、大正期ごろまでは、文章を書く人と取材する人は、職種が別れていました。文章を書く人を「記者」、取材をする人を「探訪」と呼んでいました。

 

探訪は「古い時期には、御家人くずれ、町内の口きき、刑事の古手などが含まれた。文字を知らない者は、内勤の記者に報告して記事を書いてもらっていた。つまり無学の者が多かった」「記者と探訪者の違いについて、長谷川如是閑は『庶民一般は政談演説でもなければ新聞記者には接しなかった。庶民と接していたのは探訪人だけだ。上のほうの記者は恐れられていたというより尊敬を受けていたが、探訪人は、民間からはバカにされていたものだ』と回想している」(河崎吉紀著『制度化される新聞記者-その学歴・採用・資格』2006年柏書房p20)と研究者の本の中では説明されています。

 

その後、報道のニーズが高まり、記者が取材、探訪者が文字を書くようになって両者の違いはなくなったということです。

 

現在、記者の中でも、担当によってはほとんど記事を書かず、情報をとってきて、メモにするということを毎日している人もいます。これはまさに「探訪」的な仕事で、「記者」的要素は低いように思います。

 

しかし、今、「記者」という言葉だけ残っているのは、あくまで個人的な推察ですが、もともと尊敬されていた「記者」という呼称に統一することによって、職業的地位を上げたかったという意図があったのではないでしょうか。

 

◆「探訪者」的要素の強い現在の記者◆

新聞社の求める人材についての話に戻りますが、現在、新聞社が記者として求める人物像は「探訪者」的要素が強いです。「記者」的要素は企業内で十分鍛えられると考えているのでしょう。

 

逆に言えば、取材力は個人の資質にゆだねている部分が多いということです。僕は、主にそこに着目した研究をしたいと考えています。

 

例えば、新聞社が考える「好奇心」「行動力」「コミュニケーション」という資質はどんな成果に、どう結び付いているのか。これらを因子とした分析ができれば、面白いなと思います。

 

しめ縄を面白いと思ったら、良い記事が書けるのかなぁ、うーん。難しい……。

 

 【ジャーナリズム人材育成論】

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記者はプレスリリースのどこに注目しているのか。

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◆プレスリリースを読み込むことはない◆

先日、公益社団法人「チャンス・フォー・チルドレン」(https://cfc.or.jp/)が、被災地の家庭の状況をアンケート調査した結果を、報道関係者らに発表したいとのことで、プレスリリースの作成をお手伝いをさせていただきました。

 

発表当日は大盛況で、大手紙にも取り上げられたようで、少しでもお力添えできたのなら、よかったと喜んでいるところです。内容の詳細はこちら(https://cfc.or.jp/archives/event/2015/03/10/8748/)。

 

さて、プレスリリースを書くにあたっては、どんな点に気をつければよいのでしょうか。

 

プレスリリースは、都市部になればなるほど、毎日、記者のもとへ大量に届きます。大量の資料を隅から隅まで読み込む時間はないため、さっと目を通してほとんど捨ててしまいます。

 

プレスリリースを出す方は、当然、記事として取り上げてもらいたいわけですから、記者を「おっ」と思わせるポイントを仕込んでおく必要があります。

 

例えば、一般紙を対象とした場合、プレスリリースの内容については、以下のような工夫すべきポイントが考えられます。

 

 

◆プレスリリースを書く上でのポイント◆ 

1:プレスリリースには記事に必要な最低限の情報は載せる
「いつ、どこで、だれが、なにを、どうする。その目的は……」。というのをストーリー性を持たせておもしろく、わかりやすく、端的に書いておく。写真として見栄えがするかどうかも伝えた方がよいです。また、情報にアクセスしやすいように、担当者の携帯や、つながりやすい連絡先があればなおよいと思います。とにかくすぐに原稿が書きやすい体制を整えておく必要があります。

 

2:公益性の高いものにする
一企業の私利私欲感が出ると、一気にトーンダウンします。社会性のある要素を作る必要があります。ボランティアで○○するとか、無償で○○を提供するなど。また、特定の業界の人だけでなく、広く一般の人が関心のあるような内容にすることも重要です。NPOの活動が記事になりやすいのは、公益性が高いからです。

 

3:「○○初」「○○で一番」「最大級の○○」という言葉をつける
「一番」は、「日本で一番」だけではありません。関東で一番、県内で一番、今年一番でもよいです。何かしらの一番を見つけることが大切です。ほかにも、業界初の○○を開発した、日本では戦後初めてなどでもよいです。ちょっとあおり気味でも、キャッチーな部分を見つけ出すことで、記者はとりあえずどんなものなのか聞きにくると思います。


4:全国的にネームバリューの高いものに引っ掛けた企画を考える。
東京ならスカイツリー、雷門、京都だったら清水寺、舞子さんなど、全国の誰しもが知っているものに関連した内容にすると記事になりやすいです。古来の祇園祭を○○で再現しましたというような、直接、有名なものとコラボしなくても、有名な名前が使えるようにすることが重要です。


さらに、売り込み方も時と場合によって、工夫すべきポイントがあるように思います。あくまでも、イレギュラーテクニックですが、次の2点が考えられます。

 

◆イレギュラーテクニック◆

1:いいネタなので、とにかくどでかく行きたい!という場合
信頼できるクレバーな記者がいれば、公式リリースより先に伝える。「まだほかの誰にも言ってないんですが……」という言葉は、記者を大きく引きつけます。お互いの立場があるので、なかなか難しいですが、妥協点を模索してリリースすることで予想以上に大きく扱ってもらえることがあるでしょう。


2:とにかく地域面のベタ記事でもいいから、記事としてねじ込みたい!という場合
懇意にしている記者に頼み込む。「これだけは載せないと社長のメンツが……」、「先方との兼ね合いとかでどうしても記事にしたいのだれけど……」という場合があったら、「地域面の2面でいいから載せてほしいんです」とお願いすれば、良い記者なら載せてくれるかもしれません。


記事は、記者が載せるかどうかを判断できるわけではありません。当然、上司がいて、さらに上の上司がいて、という具合に意思決定権ははるか遠くにあります。

 

第1フィルターとして現場に存在するのが記者。彼らが上司に真っ先に聞かれるのは「それ、おもしろいの?」「それ、珍しいの?」「他社は知っているの?」です。


記者も、自らの業績を上げるため、大きな記事を書きたいと思っているので、うまい売り込み方を考えています。すでにプレスリリースに、売り込みやすいポイントが載っていたら、当然使いたくなります。

 

私はこれまでの経験で、最強の広報に出会ったことがあります。プレスリリースには、すでに記事スタイルで文章が載っていて、現場の写真もデータで提供されます。しかも、社によって若干構図の違う写真を用意してくれるという配慮までされているのです。また、ネタがなくて困っているときは、全力で調べてくれて、取材のアポまで手助けしてくれる始末です。

 

そういう広報に出会うと、いつもお世話になっているから、いつか恩返ししようと思うのが人間。最後は、プレスリリースを出す側と出される側の人間関係ってことですね。

 

今日は、プレスリリースについて考えてみました。何かを伝えたい時は、相手の立場に立って考える。これはどんな文章でも、同じことが言えると思います。

 

お元気で。

新聞を使って文章力を伸ばすには、コラムよりもベタ記事!?

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◆コラムの書き写しは効果があるのか?◆

 

文章力を高めるには、どうしたらいいの?という質問を受けるときがあります。

 

細かい文章のスキルはいろいろあるのですが、まずは、大前提として、文章は「情報を削る作業である」という認識を持つことが大切かと思います。書くことがはっきりしていないのに、よい内容の文章を書く事は難しいでしょう。書きたい事についての情報を、的確に集める事からスタートすべきかと思います。

 

新聞記事は、実際に取材して聞いてきた情報が10とすれば、大体2〜3の内容しか書かれていないことが多いです。「おいしい」情報をぎゅっと凝縮して書かれているわけです。

 

新聞を使った文章のトレーニングとしては、よく一面の下にあるコラムを書き写しましょうということが言われます。コラムというのは、朝日新聞であれば「天声人語」、産經新聞であれば「産経抄」、毎日新聞であれば「余録」、読売新聞であれば「編集手帳」、日経新聞であれば「春秋」というタイトルがつけられている欄です。

 

これらのコラム欄は、新聞社で最も筆力のある「名文家」と言われる記者が書いています。少ない文字数のなかで、日々、起こる出来事を、文学や別の事象を引き合いに出しながら、うまくオチをつける極めて優れた文章です。

 

ちなみに、読売新聞の「編集手帳」は、段落を分けるときに改行するスペースがないため、ひし形(◆)で段落を変えています。ひし形とひし形の間の中心で折り曲げると、ひし形がぴったりと重なり合うときは、ある一人の記者が書いています。署名としての役割を果たしているんですね。

 

さて、これらのコラムを書き写す事で、文章が本当にうまくなるのでしょうか。

 

私の意見としては、コラムを書き写すのは、

 

プロ野球の投手がフォークボールを投げるのを見て、「さぁ、あなたも同じフォームを真似して、フォークボールを投げてみましょう」

 

と言われているようなものだと思っています。

 

確かに、文章の「本物」に触れ、実際に書く事で、より深く味わうことができるため、全く意味がないとは思いません。また、ある程度文章の構造が理解でき、文章力が備わっている人なら、練習になるかもしれません。

 

しかし、そうでない人であれば、もっと練習になる記事が、ほかにあるのではと思います。

 

その記事とは、地域面のベタ記事です。

 

◆効果的な練習法は、ベタ記事を分解してみること◆

 

ベタ記事というのは、見出しと本文が1段のみで簡潔している短い記事です。トップ記事であれば、見出しを3段くらい使って大きく扱いますが、それほどニュース性がない場合は、ベタ記事になります。

 

さらに、地域面のベタ記事は、主に駆け出し記者が書いています。

 

つまり、文章力が一人前になりきっていない記者が、必死で書いている記事なのです。

 

余計な工夫を凝らす力もスペースもない。だからこそ、必要不可欠な情報ばかりがぎっしりと詰まっています。

 

例えば、事件の記事であれば、

 

 女性の自転車の前かごからバッグを盗んだとして、○○署は9日、東京都○区、無職○○容疑者(25)を強盗容疑で逮捕した。○○容疑者は「覚えがない」と容疑を否認している。

 発表によると、○容疑者は、9日午後6時25分頃、○区の路上で、同区の主婦(50)が乗っていた自転車の前かごから、財布などが入ったバッグ(3万円相当)を奪った疑い。

 

といった記事があった場合、この記事を成立させるために、聞かなければいけないのは、

 

  • 逮捕はどこの署がした?
  • 誰を(住所、名前、職業、年齢、生年月日)?
  • いつ逮捕?
  • 容疑名は?
  • 身柄は容疑者でいいのか?
  • 通常逮捕?
  • 容疑を認めている?否認している?
  • 容疑者は何と言っている?
  • 逮捕事実は?(誰が、日時、どこで、何を、どのように奪ったか、なぜ奪ったか)
  • 被害品は(バッグの中身も)?
  • 被害金額は?
  • 被害者について(住所、職業、年齢、生年月日)?

 

という情報が最低限、必要です。

 

ほかにも、実際に聞くときは、

 

  • 被害者はけがをしているのか?
  • 余罪はありそうか?
  • どうやって逮捕されたか?
  • 近隣で同様の被害はあるのか?
  • 主婦はどこからどこへ向かっていたのか?
  • 容疑者は有名人や公人ではないか?
  • 同じ手口の被害は増えているのか?

 

 

などといったことも必要かもしれません。

 

 

ベタ記事を書くために、聞くべき必要な情報は何かということを、記事を分解してリストアップしてみる。さらに、自分だったら、追加で何を聞いてみるだろうかと考えてみると、的確な情報を集めるスキルが上がっていくように思います。また、記事を分解することで、文章全体の構造も理解できるようになります。

 

本日は、新聞を活用した文章力トレーニングについて考えてみました。いざ書きたい事が思い浮かんでも、文章を書くにあたって、どういう情報が必要かわからないと、深い文章は書けません。記事を分解しながら、記者がどういう取材をして記事を書いたのか、疑似体験してみると、うまく情報が集められるようになるかもしれませんね。

 

お元気で。

 

【ジャーナリズム人材育成論】

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